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沼正三著 『家畜人ヤプー』稀代の奇書として一部では有名だが、最後まで読んだ人はどれくらいいるだろうか?著者は、究極のマゾヒズム世界を描いたと述べている。だが、正体不明の日本人の想像力が創り上げた世界は、価値観の逆転や価値観の対立を含み、いわゆるSMという枠には入りきらない。 ◇ 舞台はイースと呼ばれる世界。そこでは、人種差別とSM(サディズム・マゾヒスム)が制度化された階級社会で、その最下層にヤプー(Yapoo)がいる。 支配階級は白色人の貴族。その下に白色人の庶民がおり、さらに黒色人が奴隷階級を構成している。 白色人階級は女権革命によって女性絶対優位社会となっており、政治権力は女性の手にある。それだけではなく、女性は強さを魅力とし、化粧をする男性は弱さを魅力としている。男尊女卑の価値観が戯画的に相対化されている。 一方、白色人に奉仕する人間として位置づけられる黒色人の社会は男尊女卑の価値観であり、二つの価値観を二つの階級に割り振ったことで、価値観の対立を戯画化して描いている。 この価値観の戯画化、価値観の相対化が、著者の真の狙いなのか、真の狙いを隠す厚化粧なのか微妙なところだ。 ◇ 最下層のヤプー(Yapoo)は人間ではない。ヤプーは生ける道具であり、家畜よりも下に位置付けられる存在である。 イース世界に黄色人は登場しない。ヤプーは「日本人の子孫」だが人間ではない。日本人はホモ・サピエンスではなく類人猿(エイプ)の1種とされているのだ。 ヤプーは、様々な品種改良の結果、椅子や鏡台、スキー板、はては便器といったイース世界の道具と化している。そのいちいちは紹介しないが、次から次から登場する道具の詳細な説明は、読んでいて不快を通り越して、よくもここまで書いたものだとで感心せざるを得ない。とにかく、妙な理屈がとことん通してあるのだ。 これを〈人間が道具と化した社会〉を風刺したものと解釈することも不可能ではないだろうが、著者が描こうとしたものはそれではない気がする。この著者は、他人のための道具であることの幸福を、本心から信じていたような気がするのだ。 それが、差別を「人権」の立場から許し難いものと見る〈正しい視点〉ではなく、服従を喜びとするマゾヒズムを〈愛情の表現様式のひとつ〉とする視点に立つことにつながり、差別に対する全く異質な描き方につながるのかとも思う。。 ◇ この作品を貫いている性と汚物に対する感覚は、現代社会の衛生観念とは全く異質である。白色人(特に女性)はヤプーにとっては〈神〉であり、白色人の排泄物はヤプーにとっては〈神の御物〉となるのだから。 愛があればすべてが受け入れられるのか? イース世界の制度は、そんな問いを戯画化していると言えるかもしれない。愛着する相手の排泄物への思いの複雑さは今昔物語にも描かれているほど根深いのだ。 (1992年03月/2013年08月改) 角川書店 文庫 1972 |