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今井康夫著 『アメリカ人と日本人』
著者の今井氏は通産省の官僚で、1985 年から1988 年にかけてワシントン D.C.に家族とともに暮した。その経験を生かして、アメリカ人が「あるべきアメリカ人」と考えている人間像と日本人が「あるべき日本人」と考えている人間像とを、教科書に採用されている話の比較を通して描き出そうとしたのがこの本である。
「国語の教科書は読み書きや文法を教えるためのもので、ものの考え方や価値観を意識的に教えるものではない。それだけに、かえって国語の教科書に取りあげられている題材から、にじみでてくるものの考えかたや価値観は、その社会全体で当たり前のこととして共通認識されているものに他ならない」 この基本的な考え方は納得できる。そして日米の小学生向け教科書を読み、米国209編、日本211編(日本書籍・東京書籍)の作品を読み比べた努力もすごいとは思う。しかし、私が読む限り、おのおのの作品の評価・分類には納得できないものが散見された。 で、今井氏の引出している結論は、「アメリカ人にとって、本書で分析してきた『創造性と個性に富んだ強い個人』こそが、理想とされる”個人像”だと考えることができるのではなかろうか」というものと、教科書に出てくる日本人像は「暖かい人間関係の中のやさしい一員」であるというものだ。 この結論そのものの妥当性は一人一人がこの本を読んで決めればいいことだが、私の個人的意見としては納得できる気がしています。ただ、私たちがもっているアメリカ人像と日本人像に合致する姿が最初から結論として存在して、それにあう話を持ってきただけではないかというきがかりもありますが……。 さて、この本でおもしろかったことをいくつか紹介。 ひとつは「訴訟社会 アメリカ」というキーワードに対応させて、「予防社会 日本」というキーワードを使っていることです。「予防社会」とは言い得てるなぁと感心してしまいました。 ふたつめは〈アメリカ流の友人観〉についてです。今井さんは〈アメリカ流の友人観〉を次の様に述べています。 「友人関係は、本来、選ぶこと、選ばれることから成り立つものであるが、日本の教科書では、これほど見事に割りきれないだろう。多分、日本の教科書であれば、『特定の仲間だけがパーティーに招かれる』のではなく、『みんなと仲よくなる』ということが最終ゴールになるであろう。」 これの元になっているのは、『転校生』という一年生向けのもので、友達のいない転校生マーシャがいろいろ苦労して友達をつくるという話らしい。話の最後に、同級生が自宅で開いたパーティーに招待され、そのパーティーにはクラスメート全員が招待されたわけではない(つまり選ばれた)ということから、〈友達は選び、選ばれるものだという価値観が教科書に表われている〉と考えたようだ。 インパクトを感じた話(教科書に載っている作品を今井さんが要約したもの)としては、こんなものも。 「グェンは友達と一緒に、毎週海辺で行なわれる『砂のお城づくりコンテスト』に挑戦する。妹のナンが手伝いたがるが、めちゃくちゃにされてしまうからと仲間に入れてあげない。 ところで、責任をとるとはどういうことでしょう? いろいろな考え方があるでしょうが、「責任をとる」ことの中に、「不利益を負う」ことは入るでしょう。もちろん、「不利益を負う」ことだけが責任の取り方ではないし、「不利益を負った」だけでは不十分なことも多々あります。しかし、責任のある人が不利益を負わず、責任のない人が不利益を負っている状態が、望ましい状態でないことは確かです。 この考え方から見ると、ナンという女の子は自分のやったこと(城をこわす)が原因になって不利益(花火が見られない)を負っている。ここでは、罰として不利益を甘受することで初めて許されるという構図があるようです。 (1990年06月/2009年09月) 創流出版 1990 |