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井上章一著 『美人研究…女にとって容貌とは何か…』


この本が出版されたのが1991年。井上章一氏は『美人論』で話題になり、その続編がこれです。
当時、本が平積みになり、井上氏はメディアに登場して活躍しました。

20年以上前、この続編の紹介を書きましたが、時代に合わせて書き直してみます。

    ◇ ◇ ◇

私は『美人論』の方は読んでません。ですから、以下の文章はこの本を読んだだけで書いているということをまず断っておいて……。

この本を評価すると上中下なら〈下〉だと思います。「美人」というテーマ、あるいは取り上げ方の是非は別として、井上氏の意図に沿って判断しても、です。

井上氏はこの本の意図を
「美人への直接取材により、美人意識のライフヒストリーを記録する」
と書いています(直接取材とはインタビューのことであり、女性に話を聞き、そのやりとりを記録しています)。

この意図に照らしても失敗だというのは、相手から話を引き出していないからです。

良いインタビューとはどんなものでしょう。やはり、効果的な質問や相槌で話を引きだすインタビューでしょう。それなら、インタビューする側の発言より、受ける側の発言が多くなるはずです。たとえば、TV番組の「徹子の部屋」を書き起こしたら、そうなるのではないかと思います。

この本はどうなのか? 以下の数字は、登場する女性ごとに記録の行数を数えたものです。

 井上氏131行 vs 匿名女性 138行 (1:1.05)
 井上氏126行 vs 匿名女性 138行 (1:1.09)
 井上氏157行 vs 匿名女性 171行 (1:1.09)
 井上氏147行 vs 匿名女性 162行 (1:1.10)
 井上氏250行 vs 田中優子氏291行 (1:1.16)
 井上氏134行 vs 匿名女性 173行 (1:1.29)
 井上氏144行 vs 匿名女性 192行 (1:1.33)
 井上氏123行 vs 見延玄子氏185行 (1:1.50)

見れば明らかなように、井上氏と女性の発言の量(行数)が2割まで違わないのが8人中5人。かなり、井上氏の発言量が多いことを表しています。

インタビューの内容はどうか?

井上氏の質問や発言は、誘導質問だったり駆け引きだったりで、相手の意見を引きだす気があるのか疑いたくなるものばかりです。井上氏は、本音を引き出すためにやったと言うかもしれませんが、氏の先入観や価値観が正しいと認めさせようとしているとしか見えません。

    ◇

ところで、美人とはどういう女性を指すのでしょうか? 井上氏は美人とは「顔のきれいな女」「顔形の美しい女」であろうと述べています。そして、「こう決めつけたい。美人度は容姿の良否で決まり、その容姿も、体型よりは目鼻立ちにもとづく、と。」

この認識そのものは井上氏の個人的なものですから、お好きにどうぞということです(それを公表することの社会的意味については別ですが)。
一方で、井上氏は、人生訓として次の様な節を引用しています。
「女性はすべて美しくなる素質を備えてうまれているのだ」(巻正平)

「『私は美しい』という自信は……すべての女性に恵まれると信じます」(羽仁説子)

「そこに百人の人がいれば、魅力もまた百通りあるはずだ」(落合恵子)
そして、井上氏はこれらを「女はみんな美しい。美人じゃない女なんていない」という人生訓だとまとめています。

このまとめ、どうでしょう? 少なくとも、三人の言葉は、井上氏の認識である「美人度は容姿の良否で決まり、その容姿も、体型よりは目鼻立ちにもとづく」という意味での美人を指してはいません。もっともはっきりしているのは落合氏で「美しい」ではなく「魅力的」という言葉を使っている。これは、落合氏の言動からして、いわゆる容姿の「美しさ」とは違っているはずです。

こうした意味の違いを理解できないのか、理解する気がないのか、理解した上で曲げているのか、どれなのかはわかりませんが、井上氏のやり方はフェアには感じられません。

その上で「だから、『おきれいですね』と言われても、否定する必要はどこにもない。あっさり肯定すれば、いいのである」と述べたり、女性が『きれいだ』と言われた時に、『そんなことはない』などと否定し謙遜してみせる自制心について、「考えてみればおかしなことだ。こうした謙遜は、あきらかに現代の人生訓とはくいちがっている」と述べているのです。そうでしょうか?

    ◇

さて、美人度は「顔形の美しさ」だという井上氏の土俵にのってみましょう。すると、「美しさ」を誰がどうやって決めるのか、という問題が生じます。ここで、井上氏はこう言います。
「私にとっての美人。これは、簡単だ。……。
(中略)
ひとびとの心に、その美的感動をよびおこす百分率の高いひとは、美人としての普遍性が高くなる。」
つまり、ひとりひとりが感じる「美人」の多様性は認め、しかし、より多くの人が認める「美人」が「美人」であるというわけです。多数の人間の美意識が「美人」を決めるということは、「美人」が文化的・社会的な制度の産物であることと深く関係します。

「美人」を決める側と決められる側が存在し、しかもその間の力関係には不均衡がある。

「イケメン」という言葉が普通に使われる現在と違い、二十数年前は、女が、容姿の美しさで男を選ぶ場面はなかなか思い浮かびませんでした。もちろん、いつの時代でも、女性だけの中では「誰が美男か」という話をするしているでしょう。しかし、社会的に、男性が「容姿」で選抜される事態がそもそも限られています。アイドルとか、歌手、役者といった容姿そのものが商売道具の場合には、男であれ女であれ、容姿は選択規準となり、「美人」「美男」であるかどうかで選抜されることとなるわけです。

二十数年前、男が「美男度」を問題にされる場面より、女が「美人度」を問題にされる場面の方が圧倒的に多く〈容姿端麗〉が採用基準になっていた職業さえありました。こうしたことの前提には、社会における男女の力関係の不均衡があり、フェミニズムの人がミス・コンテストを問題視した背景となっています。

ところが、こうした問題についての井上氏の理解は次のような御粗末さです(今は、こんなことは言わないでしょうが……)。
 「今、フェミニズム陣営は、美人コンテストを批判する。そこに男女差別があり、性の商品化があるという理由で、非難する。コンテストの開催そのものを、粉砕しようとする一派もある。
 だが、私には、それらの理屈がよくわからない。屁理屈のようにも、聞こえる。思うに、フェミニズム陣営も、ほんとうにあんな理由でコンテストを嫌っているのではないのではないか。
 おそらく、世間一般に蔓延している美人認定という慣習そのものが、いやなのだ。品定めが、いやそもそも美人という観念じたいが、不愉快なのである。
(中略)
 美人コンテストは、世間にある美人認定のプロセスを、純化させ誇張したものだ。女たちをしばしばキズつける、その毒のエッセンスのようなものなのである。フェミニズム陣営が、市民社会の倫理を動員してこれをたたくのは、そのためであろう。くりかえすが、性の商品化うんぬんという理屈は、副次的なものだと思う。」
まあ、これも「ミスター&ミスコンテスト」が開催される現在は、いくぶん違ってきています。

    ◇

閑話休題。

かつて、故・宇井純氏のレクチャーを受けたことがあります(宇井氏は水俣病に関わっていった人です)。その時に、次のような話がでました。人間の性(さが)についての深い洞察なので以来たびたび思いだしているものです。

当時、国・厚生省・県・企業は責任を認めておらず、できるだけ認定しないように認定しないようにとなっていたそうです。こういう場面で活躍するのが御用学者。当時の東大医学部保健学科の教授(だったと記憶しているが確認していません……)が、国の命を受け、認定の作業にあたりました。認定では、患者が水俣病に冒されているかどうかを症状から判断するのですが、症状の中に感覚神経の麻痺という項目があって、検査では患者の手足を針で刺し、痛みを感じるかどうかを調べたそうです。このとき、御用学者は、患者は見舞金(保障金)欲しさに痛みを我慢してるんだ、と言ってのけ、これでもか、これでもかと針を刺したんだそう……。

このことに関して宇井氏が言ったのは、御用学者は、自分がプライドよりも人間性よりも金を大事にするもんだから、誰でも金のためなら何でもすると思ってるんだ、ということでした。言ってしまえば、誰しも自分をもとに他人の内面を推量るしかないのだということなんですが、自分が金のためなら何でするから、他人も同じで、金のためならなんでもすると考えるわけですね。

なんでこんなことを書くかというと、井上氏のフェミニズムへの理解とか、美人についての考え方(私には貧困だなぁとしか思えないものです)は、井上氏の内面の反映だろうと、思ったわけです。

井上氏が「おそらく、世間一般に蔓延している美人認定という慣習そのものが、いやなのだ。品定めが、いやそもそも美人という観念じたいが、不愉快なのである」と書く時、実は、井上氏自身が「世間一般に蔓延している美男認定という慣習そのものが、いやなのだ。品定めが、いやそもそも美男という観念じたいが、不愉快」なのでしょう。

こんな男性は、現在でも、かなり居そうです。


(1991年10月に書き2013年08月に直す)

河出書房新社
1991

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