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門野晴子著 『性教育 Q&A』


本書は、1986年に門野氏が書いた『ザ・性教育Q&A』(青山館)を第1部として収録し、第2部(アメリカの子どもの現状と日本)では、1986年以後の状況の変化を視野に入れて「十代の親・性教育」「エイズ・ホームレス・ゲイ」「セクハラ・子どもの権利条約」の3つが収められている。

この本を読むと、門野氏の考え方・やり方に驚き反発する人がいるかもしれない。たとえば、門野氏は自分の娘と彼女の恋人とを自宅で同棲させている。これだけを読むと門野氏が何かとんでもないことをしたと感じる人の方が多いだろう。しかし、門野氏のこの選択には、氏の性への考え方と、青少年の性への考え方とが象徴的に表れているのだ。

氏は言う。
 「娘と彼はその年(氏の娘が高1、彼は高3)の三学期から、わが家でいっしょに暮らしはじめました。わたしがふたりを認めたわけは、いけないと言えば、ウソをついて外で会うようになるでしょう。夜遅くまでうろついている高校生を見て、そうさせたくないと思ったのね。
 それに、わたしは恋愛は個人の権利だと考えているから、困ったことだとは思わなかった。それからもっと大事な理由は、娘をほんとうに幸せにしたかったの。わが子とは性について話しあってきたけど、相手の家庭はしているとはかぎらないでしょう? 娘が彼を教育するにはまだ十六歳だもの、ちょっと心配。妊娠してからでは遅いと思って、生活の中で彼にも性教育をしようとたくらんだ。」(本書14ー15ページ)
門野氏の基本的な考え方は、恋愛が個人の権利だということと、性はあくまで個人に属するものだということ。前者については娘の同棲を認めるところに表れている。後者については次のような記述を引用すれば氏の考え方を分かってもらえるだろうか。
「男も女も、マスターベーションは性の基本です」
これを読むと「なんなんだぁ?!」と感じる人もいるだろう。それに対して氏はさらにこう説明している。
 「(性欲を)ガマンすることはたいせつだけど、いつでもガマンしているとイライラしてきて、よくないわね。おうちでゆったりしているときや、眠りに入る前に、もちろんそういう欲求があるときに、自分で快感をえるのは、とてもステキなことでしょ。
 そうやって、自分で自分のからだと心をコントロールすることは、生きることの基本という意味で、とてもたいせつなのよ。自分の性欲をだれかに処理してもらわないと生きていけない、なんて、だらしがなくて恥かしいことなんだ。
 だからわたしはマスターベーションを、『性の自立』と言います。
 マスターベーションが性の基本で、その自立した、自分のからだの状態をよく知っている女と男が(もちろん同性同士でもいい)、ふたりでコミュニケーションをする。それがセックスでしょう?」(本書36ー37ページ)
門野氏は恋愛と性を個人の権利として年齢にかかわらず認めている一方で、いや認めているからこそ、性に関わることについて正しい知識を得、正しく考えることを要求もしている。無条件に性の衝動に身を任すことをよしとしているのではないのだ。その結果として(当然のことなのだが)「性の神話」に対してはそれと闘う姿勢が一貫している。
 そして、その姿勢の中でもっとも重視されているのが、「女も人間なんだということ」をきちんとわかること。これは特に男の子に対してはっきりと要求されている。氏の息子や娘の彼に対して門野氏は、このことをはっきりと理解することを求めている。

それを端的に表すのが次のふたつの記述だろう(カッコ内は筆者中)。
 「私が息子と娘を育てた性教育に、一箇所だけ男女別のところがありました。それは『レイプ』についてです。息子には広義のレイプ(狭義のレイプ=強姦、広義のレイプ=女性の意志に反したことを暴力・脅迫などで強要されること)について語り続け、私とどなりあうことはいいのですが、妹をどらりつけたりなぐったりすることをダンコ禁じました(なぜならそれは広義のレイプだから)。その上、なにをやっても自分でオトシマエをつけるならかまわない、学校や警察に呼び出された場合はあなたの側につく。ただし、レイプをしたときはあなたを殺す!と言ったのです。」
(本書115ページ)

 「私は息子に、男が避妊をしないセックスは全部レイプだ、と言ってきたの」
(本書170ページ)

本書の第1部は、それぞれのQ&Aの後に「親と教師へのメッセージ」がある。ここが実に面白い。子どもを”純真な存在”という枠組みに勝手に押しこもうとする親。子どもを守るという大義名分のもとに、子どもの権利を認めない教師。子どもの性を、”きれいごと”ですませようとする社会。そうしたものに対する苛立ちと怒りが行間に(言葉自体にも)表れている。

その中から一節を引用しよう。この一節で言われていることに対して教師・学校は考えなければならないだろう。
 「ただ、どういう教育方針でも問題の起こりがちなそれは、共通している面があります。それは、はじめに入れものありき、ではないでしょうか。『勉強のよくできるいい子』とか『男らしい・女らしい』とか最初に枠組をつくってしまっていて、その中に子どもをはめこんでいく、という方針です。
 その最たる強硬な入れものが、学校教育の『望ましき生徒像』でしょう。ちなみに、入学式の校長の祝辞から、ふだんの担任の説教までを合わせて整理するとこうなります。
 『すべての教科に勝ち抜いて友を差別せず、授業は静かに集中して元気にあふれ、教師の命令には絶対服従して自主性に富み、服装も髪形も学校のお気に召すままで個性にあふれ、異性とはつき合わぬ男女共学、夜ふかしをせず深夜まで勉強し、新聞を読み政治を批判せず、非行にはそまらずたくましく冒険心を持ち、対話があって口答えせず、親が世話をやいてやって過保護でない……』
 というのが、学校の要望であり、教育方針です。」(本書65ページ)
 もちろん、この引用は門野氏が邪揄したものである。だから、そんなばかなことを求めてはいない、と反論する人も多いだろう。だが、ほんとうに違うだろうか?


(1992年11月に書き2013年08月に直す)


朝日新聞社
1992



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