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火曜定休でした(岡本太郎記念館



下村満子著 『男たちの意識革命』

 この本は、アメリカでの男性の意識革命を扱っている。著者の基本的な問題意識は「過去10年間、アメリカをゆさぶってきた女性運動があめりかの男たちにどんな影響を及ぼし、その生活をどう変えたか」である。

 アメリカでは、女性の権利が認められた結果、一部において男性の逆差別が生じた。典型的なのが、この本で扱われている「離婚」、「離婚した時に養育権をどちらが取るか」という問題である。

 アメリカでは(最近では日本でも)、自分自身の人生を見つけたいという妻が夫に離婚を突きつけることが増えた。アメリカでは破綻した結婚を維持することを要しない、つまり離婚を認めるという法律ができているので、片方が離婚を訴えれば裁判所は離婚を認める。そして裁判ではほとんどに自動的に養育権が母親に行き、父親は面会権と引き換えに慰謝料と養育料との多額の支払いが義務付けられる。ここに大きな不公平が生じたのだ。

 この本で紹介されている内容の多くはこの不公平に挑戦し、勝利をつかみ、社会の流れを変えている(変えようとしている)男たちである。こうした父親たちは父親としての平等な権利を主張し、<共同養育権>の確立を目指している。

 興味深いのは、この<共同養育権>の主張に対して、女性運動家が賛成と反対のふたつにわれていることである。

 この運動をしている男たちは、自分たちの主張(父親としての平等な権利の確立、ここには当然父親としての子供に対する義務の確立も伴う)が女性運動家の主張に合致すると言っている。

 賛成派の女性運動家はそれに同意するだけでなく、父親の権利の確立は両性の平等の確立のために必要だと言う。

 反対派は現時点(男女の平等が確立していない)では、父親の権利を認め(<共同養育権>を認め)ると、弱い女性が不利になる(慰謝料や養育料が取れない)から認められないと言う。

 反対派の行動については、「男たちが、女性の社会進出に本能的恐怖を抱いたと同じように、女性たちも、これまで”女の聖域”とされていた世界(=子育て:引用者注)に男が入り込んでくることに、自分たちがおびやかされるような本能的恐れを感じるのです」という批判もあるそうだ。

 この本では、「離婚」から発展して、「男らしさを打ち破る」問題とか「権利の平等と義務の平等」の問題とか、「ゲイ」、「主夫」、「女性からの性的圧迫」などが扱われる。内容はいちいち挙げないが、面白かった指摘を引用しよう。

 「《フェミニストたちは最近、よくこういいます。「いったい”いい男”たちは、どこにいっちゃったのよ。ろくな男しかいなくなっちゃったわ」

 女性たちは、平等を求め、男と対等あるいはそれ以上になることを望んだのです。そして、その目的を果たした。そして、まわりを見渡してみると、多くの男たちがたいしたことなく見えてきたのです。

 それは当たり前のことであり、平等のもうひとつの側面なのです。にもかかわらず、女たちは、いまだに自分より上の男を求める。自分よりも強く、頭もよく、地位も上で、収入も多い男を、ね。

 男の医者は看護婦に恋して結婚することに何の抵抗も感じないのに、女の医者が男の看護夫と結婚することは、彼女のプライドが許さないのです》」

 もう一つ。

 「《彼女たちが離婚に当ってあげるさまざまな理由は、いずれも、女性たちが結婚の条件として重視したことがらだという矛盾に、女性たちは気がつかない。もしも男が強く、支配的で、強引で、セックスのうえでもイニシアチブをとり、経済力を持たなければ、女は男にひかれなかった。女は、そういう男を好きになるのです。男らしい男だと思ったのです。

 経済力をもち、自立心に富んだ男だから、彼女はその男と結婚したのに、あとになって「彼は私を必要としていないんです」と不満をいう。強引で決断力があるから頼もしい男と思ったくせに、あとではそれがおもしろくなく、「彼は私を支配している」という。どんな困難も冷静に解決する能力をもった男だから惚れたのに、あとではそれが欠点にみえてくる。「彼は冷たく、なんの感情も持っていない人間なの」といったふうに。

 彼が強引で何ごとにもリーダーシップをとる男だからひかれたのに、あとになると「彼は私を威圧する」ということになる。なんでもよく知っている人だと感心したはずなのに、あとでは「彼は私を馬鹿にして子供扱いする」という。

 男のほうも同様だ。

 女性が自分に頼りきり、自分を必要としていると思うからこそかわいいのだ、といっていたはずが、何年かたつと、それが「重荷だ」と感じるようになる。彼女は気安い女だからいいんだといっていたのに、だんだんそれが「退屈な女だ」と内心不満に思う。彼女は汚れのないマドンナだと有頂点になっていたのに、やがて「性的に未熟で情熱的じゃない」と文句をつけ始める。素直で従順でかわいい女だと喜んでいたはずが、次第に「自分というものを持っていない女、自分の考えがつまらない人間」にみえてくるのです》

 男と女の関係の破局は、そもそも二人のロマンスそのものに内在している。男も女もその伝統的なロマンスの犠牲になるのであって、これはどうにもならない宿命なのだ、というのがゴールドバーグ博士の説明であった。

 その二人の恋がロマンチックであればあるほど(つまり古典的なロマンスであればあるほど)、それに内在する”毒性”も強く、男と女の憎悪を増幅する。女性の怒りのほうが激しく表面に出るのは、女性がその攻撃性を長いこと抑えつけていたためで、自分は被害者であるという意識が強く、それが爆発するのだ、という。男のほうは感情を極力抑え、頭で論理的に考えるように条件付けられているため、自分の感情と正直に向き合えず、また、女性の心の動きも読めない。

 ……(中略)……

 一言でいえば、ジョン・ウェイン ――それがアメリカの男たちがめざす理想のイメージなのだ。ジェームズ・ボンドでもいい。つまり、男というものは、どんなに困難な事態に直面しても、自力で解決すべきもの、悩みを人に打ち明けたり、泣き言をいったり、助けを求めたり、感傷的になったりなど、死んでもすべきではない。第一、人に自分の弱味をさらけ出せば、それは男同士の競争で敗北することになる。

 ところが、いまや彼らの女たちが、男の競争相手として名乗りをあげ始めたのです。男たちは戸惑いと不安の中で、”解放された男”になるために、あわてふためいているのです。

 しかし、いざとなると、男たちは、その生活を変えられない。なぜならばそれは『男のあかし』を失うことだから。伝統的な男の価値観にどっぷりつかりこんでしまった男たちには、『人間らしくなる』ことは『男らしい男』から『女性的男性』あるいは『ホモ的男性』になることだという恐怖がつきまとって離れないのです》

 しかし、そうした古い男のイメージから解放されて『新しい男』に生まれ変わらない限り、男たちはますます破滅への道を突き進むことになるだろう―― とゴールドバーグ博士は警告する」

     ◇

 こんなふうに紹介したのが1990年。

 それから19年経過して状況は大きく(?)変わったようだ。まだまだと考える人もいれば、行き過ぎだと感じる人もいるだろうが、変化があったことは確かだ。

 そうした変化の結果だろう。欧米では、離婚した場合に、子の父と母の両方に親権を与える“共同親権”が常識になっているらしい。日本はまだ一方だけに親権を与える考え方だそうで、国際常識(先進国の常識)との乖離がトラブルを産んでいるという報道があった。
 国際結婚をして子供をつくったが、いろいろな事情で離婚することになった際に、子を日本に連れ帰った親が相手国で“誘拐罪”で訴えられるとか、子を連れて行かれてしまった親が面会を求めても会えないとか……、そんな事例が紹介されていた。

 世界の常識(共同親権)が日本の非常識、日本の常識(単独親権)が世界の非常識。日本国内での対応が遅れ、個々の親子が困っている構図――。この構図は、繰り返し見せられている気がする……。


(1990年10月/2009年11月)

朝日新聞社
1986/1982


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