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精子発見のイチョウ(小石川植物園



多田茂治著 『野十郎の炎』

 7月9日(2006年)に見に行った高島野十郎展で買った本で、野十郎の伝記です(あとがきによれば、旧版は2001年に出版されています)。

 私が絵を見るとき、基本的に、画家のことは頭から外します。もっと言えば、タイトル・作成年代も外して、言語を外すようにします。作品を解釈するのではなくて感じるために、そうしています(中学生のときから、そうやって見てます)。ですから、画家の生涯を(積極的に)知ろうとは思わないことがほとんどで、詳しく知る努力をしたのはゴッホくらいでしょう。

 そんな私ですが、野十郎のことは知りたいと思った。

 ま、理由はいろいろ挙げられますが、いちばん大きいのは、作品のもつ特異性で、今まで見てきた多くの画家のいろいろな作品と、本質的なところで違うと感じたこと。究極の写実と言うか、画家らしくない写実というか……、その原点・背景を知りたくなったんですね。カタログと共に、会場で買ってしまいました。

 で、本の内容は……。

 伝記ですから、彼の生涯が描かれるのですが、忘れられていた/再発見された画家というだけあって、明らかになっていない部分が多く、著者(明善中学で、野十郎の後輩にあたる)も「野十郎探索研究の一つの手がかりともなれば、明善後輩の私の役割は果たせる」と記しています。

 それでも、野十郎が、“人間としての魅力”が豊かな人だったことは伝わってきました。印象的なエピソードを紹介します。


 この伊藤本家邸内のアトリエに移って、野十郎はようやく心の平安を得て絵筆を執るようになったが、伊藤武はアトリエを訪ねたある日、そぼ降る雨に濡れる法隆寺の五重の塔を描いたかなり大きな絵(十二号)が眼にとまり、心を奪われた。まっすぐ降る雨の微細な線に包まれた五重の塔が、なにか神々しく見えたのだ。
 伊藤武は遠慮がちに野十郎に申し出た。
「この五重の塔の絵、私に譲ってもらえませんでしょうか」
 野十郎は無言のまま「雨−法隆寺塔」と題されることになる絵をじっとみつめたあと、伊藤武に言った。
「あたしは八十五歳で死ぬ。それまでこの絵がここに残っていたら、これを遺品(かたみ)にやるから、勝手に持って帰りなさい」
 それ以上、無理押し出来なかったので、そのときは心を残しながら帰ったが、どうしてもあきらめきれなかった伊藤武は、一年ほど経ってから、また「雨−法隆寺塔」をおそるおそる所望した。
 野十郎はしばらく伊藤武の真剣な顔をみつめてから口を開いた。
「ほんとに欲しいのかね」
「はい、ほんとに欲しいです」
「そうか……この絵をかわいがってくれるなら、あげてもいい」
 伊藤武は勇躍して約束した。
「はい、大事にします」
「この絵は世界で一枚しかない絵だからね、大事にしてくださいよ」
 伊藤武はこうしてやっと念願の絵を手中にすることが出来、「じゃ、頂いて帰ります」と大事に絵を抱いてアトリエを出ようとしたとき、野十郎はくるっとうしろ向きになってしまった。その様子がなにか尋常ではなかったので、アトリエを出て十数歩ほど歩いたところで伊藤武がふと振り返ってみると、野十郎がアトリエの門口に立ち尽くし、その眼に涙が一杯浮かんでいた。
 伊藤武が述懐する。
「画家さんの涙を見て、身が縮む思いがしましたが、いまさら返すことも出来ず、絵をしっかり抱きしめて家に帰りましたよ」
  ……(略)……
 画家さんが涙を流すほど大事にしていた絵をただで貰うわけにはいかないと、伊藤武がそれ相当のお金を包んで、アトリエに持参したら、画家さんから一喝された。
「あの絵は売ったんじゃない。あげたのだ。そんなことをするなら絵を返してくれ」
 伊藤武はすごすごとお金の包みを持ち帰るほかなかったが、画家さんの無欲さに舌を巻いた。
「しかし、あれだけの絵をただで頂くわけにはいきませんからね、包んだお金は銀行に供託しておきました」

 金は必要なもの。でも、金が嫌い。
 おそらく、金に支配されることを嫌ったんだろうと思いますが……、何とも、魅力的な人間です。

(2006年07月)

弦書房
2006


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