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リーダーの後ろ姿(上野動物園



宮崎清孝・上野直樹著 『視点』

 「視点」という言葉はよく使われる。そして、その使われ方は多様である。

 この本は、この「視点」に二つの側面からアプローチしている。それは、「視点」のもつ多数の側面のうちの二つにアプローチしていると言い換えることもできるかもしれない。

 扱われているのは、人間が何かをわかる時に「視点」がどのような役割を果たすのか? という問題である。

 この問題について二つの側面――T部では「知覚(特に視知覚)」の側面、U部では「他者理解(文学作品の理解)」の側面――からアプローチする。つまり、「視点」は「知覚」においてどんな役割を果たしているのか? という問題と「視点」が「他者理解(特に文学作品の理解)」において果たす役割は? という問題のふたつを考えようとしているのである(前者の問題を上野氏が、後者を宮崎氏が論じている)。

 T部の「視点のしくみ」では、「視点」を「もっぱら,どこから見ているかというときの“どこ”をさす場合」に限って使う。そして我々人間の知覚が、ある固定した視点からのスナップ写真のようなもの(こうした考え方を「スナップショット・モデル」と呼んでいる)ではないことが論じられてゆく。

 人間は「視点」を動かしつつ見ている(視知覚)のである(知覚の「流動モデル」と呼ぶ)。この考え方の基にはJames J. Gibson の視覚論(『生態学的視覚論』参照)があるようです。理論的な内容を扱ってはいても具体的な事例――実験状況や錯視の例――も紹介されていて判りやすいと思います。

 T部の最後で扱われる「視点そのもの(つまり自分自身)についての情報」に関わる問題もなかなか興味深い。人が外部から情報を受け取る時、その情報は単にその外部についての情報をもたらすだけではなく、その人自身がどういう「視点」にあるのかの情報をももたらすということに問題のポイントがある。ごく簡単に言ってしまえば、人間は自分(視点)が動くことにともなう「見え」の変化から「対象や環境に対する自分の位置だけ」ではなく「自分がどこに向かってどのような動き方をしているかをも」知ることができるということです。そしてこの議論をふまえて数学における「単位の変換」や物理の「運動」の理解(誤解)が論じられている。

 U部の「視点の働き」は「文学作品の理解」と「視点」の関係が扱われています。ただ、「文学作品の理解」を独立のものとしてではなく、「他者理解」のひとつのケースとして位置付けていることは注意すべきかもしれない。著者は「文学作品の理解」に限定した議論よりも一般的な議論を(最終的な)目的としている。

 まず「西郷武彦の視点論」が簡単に紹介されている。そして<情景理解>と<心情理解>を(議論の都合上敢えて)区別し、次の問をたてる。
「視点を設定したり,移動したりすることは情景理解を深めるだろうか.深めるとすればその背後にはどのような心理的過程が存在するのか.」

「心情理解の領域での視点の設定はどのようにおこなわれるのだろうか.それは情景理解の領域での視点の設定とどういう関係にあるのだろうか.視点の設定は心情理解をどのように深めるのだろうか.」

 この二つの問がU部全体を通じて論じられていく。そしてその中で「<見え>先行戦略の優位性」が主張されている。「<見え>先行戦略」というのがU部の”売り”のようである。

 この「<見え>先行戦略」というのを(よく解らないのだが)要約する。まず、他者について<心情理解>する(例えば”主人公の気持ち”を理解する)には、自分(読者)がその他者(”主人公”)と同じ<心情>を持てればよい(同じ<心情>を持てない時には、深い理解ではないと言われてしまうだろう)。

しかし、直接的に他者の<心情>を知覚する手段はない(文学作品では書かれていないことが多いし、書かれていればすぐわかる(?)はず)。そこで自分(読者)が他者(”主人公”)とおなじ<心情>を感じる(つくる)ために、他者が何を見、何を聞き、何に触り(感じ)……ているかを考え、自分をその立場において想像する……、というようなことらしい。その主張の当否は本書を読んで、各人で判断して欲しいと思う。

(1991年02月)

東大出版会
認知科学選書1
1985

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