|
尹健次著 『孤絶の歴史意識 日本人と日本国家』この本からは自分の、あるいは日本人の無知を感じた。そしてこの本はこの無知を克服するうえで多くの意味を持つものだと、私は感じた。だが、この本に書かれている事柄を知ることが、無知の克服から「孤絶の歴史意識」の克服の方向へとつながっていくか疑問である。無知なだけで差別意識をもっていないなら素直に受け止められるだろう。だが、事実を知り素直に受け止めたとしてもその意味を深く考えるのは少し難しい気がする。既に、差別意識を持ってしまっている人には、この本に書かれている事実や主張はかえって、反発を感じさせその意識の歪みを拡大する気がする。同じ日本人として悲しくなるが、自分の直接の経験から考えても、かなりの日本人が反発し意識の歪みを見つめ直すのではなく拡大し堅固にしてしまうだろう。 ◇ この本の内容は一貫した方向性を持っているが、読んだ印象は各章で違う。 Ⅰ章「植民地日本人の精神構造――『帝国意識』とは何か――」 この章の基本テーマは、戦前戦後を通じ日本の近現代を貫いている「帝国意識」であろう。この「帝国意識」は、日本人て何だろうという問題、特に在日コリアン(に代表されるマイノリティー)に対する意識の基底に対するひとつの解答ではないかと感じた。だが、こうした意識が何故生じるのか、あるいは日本文化の中でなぜ再生産されるのか、という疑問に対する示唆があまり見えない。日本人の意識がどういうものであったか、そしてそれが今も続いていることはよく分かるのだが、何故なのかが見えてこないというもどかしさ――それは自分自身が絶えず感じているものなのだが――があった。何故なのかという問いに対して、学校を含む教育とか、文化といっただけでは何も答えていないのと同じである。しかし、この答えを探すのは日本人の仕事であるということなのかもしれない。 Ⅱ章「戦後教育における『民族』の問題――『国民教育論』の展開と関連して――」 この章では、民族とは何か? 国家とは何か? 国民とは何か? といった基本的な問題を考えなくてはならないな、と感じた。それは、多くの日本人が「国・くに」という言葉で、国家と国土と故郷をいっしょに考えていることが問題だという指摘を読んで以来感じている課題を、再度、形を変えて突き付けらることであった。日本人の素朴な〈国家観〉・〈民族観〉・〈国民観〉を問い直すことの重要性を考えなくてはならないだろう。 また、日本人の「責任」観についての、「日本では『自己責任』といえば、ひとにめいわくをかけないで自分のことは自分で処理する、という意味に使われがちだが……」という指摘はすごく面白かった。ただ、様々な事例での、企業経営者や公務員の言動を見ると、この指摘もずいぶん点数が甘いかもしれないと思う。 Ⅲ章「戦後歴史学における他者認識――在日朝鮮人の視点から――」 Ⅲ章は、歴史学の歴史をほとんど知らない私には“勉強”になった。日本人の歴史好きに関連して日本人の歴史意識に触れた部分で、歴史学の影響力を「きわめて大きい」と書いているのだが、実際にはマスコミの影響の方が大きいのではないだろうか。日本人のもつ歴史意識の大部分はテレビのドラマや教養番組、小説といったものを通してのものではないかと思う。少なくともその指摘はしておいて欲しかった。 Ⅳ章「『昭和史』における在日朝鮮人と日本国家」 この章は私が知らないでいたことが、数多く紹介されている部分である。また、歴史的事実の紹介というだけでなく、幾つかの問題点に気づかせてくれた。ひとつは〈日本人の秩序感・観〉である。日本人の考える「秩序」とは何なのか。「秩序を守る」とはどういうことなのか。その答えは書かれていなかったし、じっさい簡単には答えられない問いであろうが、自分なりに答えてみると多くの日本人にとって秩序とは「それまでの順位が守られて、混乱(広い意味での)がない状態」であり秩序を守るとは「混乱を生じさせないようにする」ことである。つまり、理由、目的はどうあれ混乱を生じさせるような行為は秩序を乱す行為であり悪なのである。正義を求める闘いですら、それが混乱を生じる場合は否定的な評価を受けてしまう。 それが端的に現れているのは現在の公立学校の教師たちの生徒への振る舞いである。生徒が何のためにするのであれ、学校の規則に反対すれば、反対すること自体が混乱につながるとして押えられてしまう。逆に混乱につながらないと安心できる場合(例えば進学校である等)、かなりのことが許される。これは多くの日本人の反差別運動への対応あるいは意識・感覚とパラレルなものではないだろうか。 Ⅴ章「孤絶の歴史意識――『昭和』の終焉とアジア――」 私は特に共感するところが多かった。だが、最初に書いた歪んだ差別意識を持っている世代からの反発が最もでるだろう部分でもある。この中にも日本人女性の反論が引用されているし、「指紋押捺拒否者への『脅迫状』を読む(明石書店)」や、自分の直接の体験からも言えると思うのが、歪んだ意識が「在日韓国・朝鮮人は帰ればいい」という形で表にでることである。それは、著者の言う「孤絶の歴史意識」を日本人は克服しなくてはならないという指摘、あるいはどう克服するかの見通しに対する、きわめて偏狭な反発であろう。偏狭ではあるが一定の割合で見られる反応であるところが悲しい(二十数年前は日本人の反応について悲しいと思っていたが、今は、ホモ・サピエンスという動物の反応として普遍性があることが悲しい)。 偏狭な反発と言えば名前の読み方がある。韓国・朝鮮の人の名前の読み方だ。メディアでは、現在、韓国語・朝鮮語の音になっているが、ごく一部の日本人は日本語の読みを続けている。また、中国・台湾の人の名前は相変わらず日本語読みだ。中国でも日本人の名前を中国語読みしているので“お互い様”ということらしいのだが、名前の音を変えさせるのは、創氏改名につながる発想ではないかという気がするし、何より実用的でない。 Ⅵ章「被差別者にとっての『国民』概念」 この章は、Ⅱ章のところで書いたが、国民とは何か? という問題をより深く考えさせてくれる意味のある部分であった。しかし、被差別部落の問題と在日朝鮮人の問題がからむと、無知が恥ずかしいとしか言えない。 Ⅶ章「『エスニシティ』の意義――『国際化』社会の陥穽――」 Ⅶ章は短い文章であるが、日本人の“脱臭”された地球意識・市民的感覚という貴重な指摘があった。気になったところは、日本社会が「同質性に固執する」のは何故かが踏み込まれていないところであった。これはここに限ったことではなく、日本人や日本文化・日本社会の本質をついた記述があっても、そのよってきたるところ特に現在の日本人がそれを再生産している、その心理的なメカニズムの記述がないのが少し物足りない。それを扱うのは歴史学ではないかもしれない。しかし、そうではあっても、そこまで踏み込まないと日本人が「孤絶の歴史意識」を克服する道は見えてこないのではなかろうか。 Ⅷ章「歴史にたいする責任――社会科学と知識人――」 このⅧ章で扱われている知識人の問題にはあまり興味が持てない。というかよく分からない。書かれていることは分かるし、日本の多くの知識人に物足りなさがあるのも確かなのだが。それが何故かと考えてみると、知識人がそういう存在であることが当たり前であって、〈良い知識人のイメージ〉が無いのである。それは二十年前も現在も変わらない気がする。 (1990年10月に書き2013年08月に直す) 岩波書店 1990 |