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粋な柄(アサガオ研究室


河岡義裕・堀本研子著 『インフルエンザ パンデミック』


 世界的流行(パンデミック)に至った新型インフルエンザは、日本でも猛威をふるっている。まだ11月だというのに患者数は警報レベルに達したという報道もあった。TVでもラジオでも、連日、新型インフルエンザに関するニュースを耳にする。しかし、それらを聞いていても新型インフルエンザの実像はわからない。

 例えば、新型インフルエンザのリスクはどの程度なのか?

 重症化して亡くなった患者のことが報道されると、新型インフルエンザのリスクが高い印象を受ける。だが、今までは報道されていなかったが、昨年までも季節性インフルエンザで亡くなった患者さんはいたわけで、リスクがどの程度高いのかはっきりしない。リスクの質的な違いも、日々のニュースでは明確にはわからない。

 現在進行形の事象なので仕方がない面もあるが、メディアに登場する専門家の発言が一致しない。季節性とさほど違わないという人もいれば、季節性と同じではないという人もいる状況では、誰の発言が信頼できるのか判断のしようがない。専門家向けの雑誌の記事や書物は信頼できるのだが、読むために相当な知識が必要になってしまう……。

 そんな不満を一気に解消してくれるのが、この本である。この1冊を読めば、一般人がもつインフルエンザとインフルエンザウイルスについての多くの疑問、たとえば

 どんな病原体なのか?
 どうやって増えるのか?
 どうやって変化するのか?
 低病原性と高病原性で何が違うのか?
 ウイルスの毒性は何が決めるのか?
 どのように新型ウイルスが現れたのか?
 新型ウイルスはどうして怖いのか?
 今後、毒性が強まるのか?
 ワクチンや治療薬はどの程度効くのか?

などといった疑問に対して信頼できる回答が得られる。

     ◇

 著者の河岡氏と堀本氏は、東京大学医科学研究所ウイルス感染分野教授と助教(本書カバーの著者紹介より)。単にウイルスの専門家というだけではなく、インフルエンザウイルスの研究を行い、世界をリードしている研究者である(どのような研究で世界をリードしてきたかも本書に紹介されている)。そのプロ中のプロが、現状を正しく伝えることを意識して書いているのが本書なのだ。

 ブルーバックスという科学をテーマにしたシリーズであるため、分子レベルのメカニズムなど科学的な内容については、かなり細かく説明されている。著者によれば「理系の大学生が読んでも十分に読み応えがあるようにあえて記載した」そうである。

 一例をあげれば、本書ではインフルエンザウイルスが増殖するしくみを、細かく説明している。今年の春に、インフルエンザについて知りたくて書店を回った際には、このレベルの説明は専門的な本(『インフルエンザのすべて』新興医学出版社・2000年刊)にしかなかった。当然、同じことが書かれているのだが、本書の方が、図を多く使っておりわかりやすい。

     ◇

 私は、本書の中味はとても信頼できると思う。もちろん、科学的な内容を評価するだけの知識があるわけではない。しかし、著者が〈現状を正確に伝える〉ために気を使っているのは、文章の端々に感じることができ、それが信頼できるという確信の元になっている。

 たとえば、本書の第1章の終わり(p.29)に、こんな一節がある。

 「第1章では、豚由来の新型インフルエンザ(A型、H1N1亜型)ならびにH5N1亜型鳥インフルエンザの概況と今後の見通しについて説明したが、時間が経過するにつれて、こうした情報は古くなり、価値を失っていく定めにある」

 また、p.204にもこんな一節がある。

 「図9-3は、新型ウイルスが発生してからの感染者数の累計を示したグラフである。いまとなってはこの数値はあまり意味をもたない。第1章でも説明したとおり、正確な感染者数を調査する検査体制がない国が存在することに加えて、ウイルスの伝播するスピードが想像以上に速かったために、感染者数を調査する公衆衛生上の目的も失われたからだ。二〇〇九年七月時点で、アメリカでは人口の約五%が感染しているという推計値もある。アメリカの人口は約三億一〇〇〇万人だから、単純計算で、アメリカ一国だけで一五五〇万人の感染者がいることになる。これは、二〇〇九年八月六日時点でWHOが発表した感染者数(一七万七四五七人)をはるかに上回る。このようにグラフの数値自体は、疫学的にもあまり意味がない。ただし、グラフの推移は、新型ウイルスの伝播の勢いを示す指標にはなり得る」

 インフルエンザウイルスを知りぬいている著者だからこそ、情報のもつ価値、とくに、時間が経過する中で、どの程度の価値があるのかを的確に評価できるのだろうし、そうした短期的価値をもつだけの情報と長い目で重要な知識とを区別できるのだろう。

 そして、この本では、他の本ではあまり見ない配慮がある。引用した部分にもあるのだが、現在進行形の事象、しかもインフルエンザウイルスの変化しやすさから来るのだろうが、「いつ」の情報なのかを明示する言い回しが繰り返し現れる。

 p.27  「現時点(二〇〇九年九月)では、……」
 p.84  「本書の執筆時点(二〇〇九年九月)では、……」
 p.85  「本書の執筆時点(二〇〇九年九月)では、……」
 p.154 「現時点(二〇〇九年九月)では、……」
 p.189 「二〇〇九年九月現在、……」

 非常に気を使っていることがうかがわれるのだ。

 著者がもつ〈現状を正しく伝える〉意識が強く現れている点は他にもある。

 メディアによって流されている誤りや不適切な点を指摘する際に、正しい情報を書くだけでなく、その根拠も提示する。科学的な知見を紹介する際には、どこまでが解明されていてどこからは解明されていないのかを書き、そして、わからないことはわからないとはっきりと書く。

 当然と言えば当然のことではあるが、〈いい加減にはすまい〉という著者の思いが、よく伝わってくる。

     ◇

 そんな著者が繰り返し書いているのが、新型インフルエンザのリスクを過度に軽く見ている現状への危惧である。たとえば、第4章の冒頭(p.84)にこうある。

 「新型インフルエンザ(A型、H1N1亜型)をめぐるメディアの報道で、いささか気がかりな点がある。国内での感染が拡がり、病原性が高病原性鳥インフルエンザよりも低いことが明らかになると、『新型といっても、季節性インフルエンザとさして変わらない。恐れる必要はない』という論調が目立って増えてきたことだ」


 確かに、今回出現した新型インフルエンザは、A型、H1N1亜型でタイプとしては低病原性だった。高病原性の鳥インフルエンザ(A型、H5N1亜型)がヒトに感染した場合の致死率は60%。それに比べれば、確かに毒性は低い。しかし、本書を読むと知ることができるのだが、インフルエンザウイルスの毒性の強さの決まり方は、実は、非常に複雑である。

 高病原性タイプ(H5N1亜型)にも、非常に高い毒性を実際に発揮するウイルスもあれば、低い毒性しか現さないウイルスもいる。

 低病原性タイプ(H1N1亜型)にも、高い毒性を発揮するウイルス(スペイン風邪のウイルスなど)もあれば、低い毒性しか現さないウイルスもいる。

 実は、“インフルエンザウイルスは、H1N1亜型で低病原性だから毒性が低い”という単純なものではなかったのだ(本書には、病原性が決まるメカニズムも紹介されている)。

     ◇

 今回、本書を読んではっきりしたのは、〈今後の動向は専門家にもわからない〉ということだ。

 インフルエンザウイルスは、複雑なメカニズムで病原性の強さが決まる上に、変化しやすい。突然変異はランダムに起こるので、今回のウイルスの毒性が強まる可能性もあれば弱まる可能性もある。偶然が関与する未来を正確に予想することはできない。それはどうしようもない……。

 そのため、著書はこんなふうに書いている。

 「こうしたウイルスの病原性発現メカニズムを理解しているウイルス学者は、二〇〇九年突如発生し、世界中に大流行している新型インフルエンザ(A型、H1N1亜型)は安全だ、などと軽々しく言わないのだ。」(p.132)

 「新型インフルエンザウイルスの病原性を決定する因子は、現時点(二〇〇九年九月時点)ではいずれも低病原性型にとどまっている。(中略)わずかなアミノ酸変異で病原性が強くなることを思えば楽観できる状態ではなく、これからも監視していく必要があることは間違いない」(p.219)


 SARSの時(扶桑社刊『SARS最前線』などを参照)もそうだったが、新しいウイルスによる病気に現在進行形で対処する場合、試行錯誤にならざるを得ず、専門家が最善を尽くしても、判断ミスは出てしまう。しかし、判断ミスを速やかに修正するという正しい対応をとれば被害はより小さくなり、誤った対応をとれば被害はより大きくなる。

 メディアには、専門家が最善を尽くした上での判断ミスに対する“批判のための批判”は避けて欲しいと思う。ウイルスを闇雲に恐れるのではなく適切に対応するために、多くの人に、何より、インフルエンザについて伝えるメディア人に、是非とも読んで欲しいと思う本である。


河岡義裕・堀本研子著
『インフルエンザ パンデミック』
講談社ブルーバックス
2009年9月20日


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