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小倉千加子著 『セックス神話解体新書 性現象の深層を衝く』

 「性」にまつわる様々な神話を打破していく気持ちのよい本。特に仮想敵とされているのは「生物学的決定論」である(あとがきより)。

 この「生物学的決定論」というのは一言で言えば「男と女の違い」は“すべて生まれつき”――つまり遺伝子で、言い換えれば生物学的に――決まっているという”虚構”である。本書では、さまざまな事例を紹介しながらこの考え方が”虚構”以外の何ものでもないことを示していく。

 第1章では〈強姦〉に関わる神話が斬られる。この章では〈性欲〉が「本能」ではないという問題、〈強姦〉の原因が〈性欲〉ではないといったことが述べられる。

 この本だけではないが、“人間の本能”については注意しなければならない。「本能」という単語は、用心深く読み、使わなければならない、危険な単語なのだ。その理由はいろいろあるが、ひとつ挙げておくと、心理学では人間に「本能」があるが、生物学では人間に「本能」は(ほとんど)ないことがある。要するに、心理学と生物学で「本能」の意味が違うのだ。


 第2章では、まず性という日本語を3つに分類する。

 1 セックス(生物学的性別)
 2 ジェンダー(社会・文化的性別:いわゆる「男らしさ・女らしさ」というイメージのことである)
 3 セクシュアリティ(俗に言う「セックス」とその周辺の行動すべて)

 次いで、この3つについて「性の商品化」の問題が分析されている。例えば代理母などが1のセックスの商品化になる。2のジェンダーの商品化は〈母性〉と〈娼婦性〉というふたつの形で行なわれているという分析がある。そして「女性はみんな従順か美、つまり母性か娼婦性を商品化して食べているのです」とまで述べるわけです。3のセクシュアリティの商品化は典型的には買・売春である。さらにポルノグラフィが社会につくりだしてしまうコードについても分析されている。


 第3章では〈女性の穢れ〉〈女性の排除〉の問題が、第4章では〈男らしさ・女らしさ〉の神話が扱われている。面白いエピソードが沢山登場するのが第5章以降である。くわしく書いては読む時の楽しさを奪ってしまうので、簡単にすませよう。

 第5章では、野生児(狼少年など)のエピソードである。感覚や知覚、生理学的状態などの記述も面白いのだが、中でも「性」に関することでは、野生児には〈セクシュアリティ〉がない――「性衝動」はあっても「性行動」はない――ことである。これは今では有名なことではあるが、人間(類人猿も)は、学習しないと「性行動」はできない。

 小倉氏は人間の性的アイデンティティを〈言語〉と結びつけて理解しようとしている。この考え方は面白い。

「言語が獲得できないと性的アイデンティティももてないのです。自分は何である、という定義をもてないからです。言いかえるなら、性的アイデンティティをもてなければ、言語ももてないのです」

このように言って、半陰陽(生物学的性別とは異なったジェンダーを与えられて子ども)のエピソードを紹介している。で、簡単に言えば、半陰陽の人たちは、セックスではなくジェンダーを選ぶということ、つまり生物学的には男性である人が、女性として育ったならば、性転換でセックスの方を変えて、ジェンダーにセックスを一致させるのだということである。そして中途半端に育った場合(自分が男か女かアイデンティティを持てなかった場合)には、言語学習に決定的なダメージを受けてしまう。ジェンダーという最も基本的なカテゴリーに組み込まれそこなうと、社会が要求する様々なカテゴリー・記号・言語のすべてが学習できないのではないか……。

 ただし、半陰陽の人たちをめぐる議論には注意が必要だろう。現在では、半陰陽の人に関する非常に著名な研究が“捏造”だった可能性が指摘されているためだ。その時点その時点の知見に基づいて論を立てるわけであり、後に、その基の知見が疑わしくなるのは小倉氏の責任ではない(ただ、2009年時点であれば、小倉氏の論も違ってくる可能性はある)。

 そして、小倉氏はこう言う。
 「ジェンダーというのは、じつは、言語のことではないのかと。
 我々が男性である、女性であるというのは最初は大人に教えられたわけです。その言語を聞かない以前に我々はジェンダーをもちえないのではないか。とすればジェンダーとは言語なのです。ジェンダーとは記号に他なりません。我々は記号を烙印のように押されている。刻印づけられ、そして初めてアイデンティティを持つ。……(後略)」

 第6章では〈性教育〉が扱われている。ここでひとつ紹介しておきたい部分は、アメリカの1960年代に起きた変化を「性行為は『両足の間』にある器官がするものから『両耳の間』にある器官、つまり大脳がするものだという考えに変わった」と捉えている部分である。

「セクシュアリティと言う場合、それがある座は大脳なんだということがはっきり認識されたわけなのです」。

 第6章では、様々な本の紹介・批評がなされてもいる。また、日本の〈性教育〉の7つのコードが整理されているところも面白い。


 残る第7、8章では、〈女性的なるものの起源〉と〈性差論争の本質〉が論じられている。言ってみれば、女性を女性たらしめる起源と根拠付け、だ。このふたつに関わる”嘘”特に、男女の違いを「生物学的差」に還元して根拠付けようとする意図的な行為――制度――のもつ”嘘”が暴かれているのは痛快である。

(1992年04月/2009年08月)

学陽書房
1988


こんな本も
『レイプ・クライシス』
『レイプ・男たちからの発言』


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