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ベイネケ著 『レイプ・男たちからの発言』
この本は、レイプについて様々な男性(米国人男性28人)にインタビューを行なった記録とレイプ(強姦)に関する論文を収録している。
レイプが「性」よりも「暴力」・「支配欲」と結びついていること、にもかかわらずレイプが「性」や「本能」と結びつけられていること(“レイプ神話”)を指摘する文章(小倉千加子著『セックス神話解体新書』)は既に読んだことがあり、この本に入っているインタビューの多くはその”神話”が社会に行き渡っていることを示す証拠だなと思う。 個人的には「レイプ」と直接の関係を持ったことはないし、間接的にも関係が生じていない。加害者・被害者としての経験はないし、知り合いから、加害・被害の話を聞いたこともない。従って、「レイプ」はあくまで想像の世界のものでしかない。もっと言えば、小説やドラマ、想像・空想の中のものでしかない。 こうした人間が「レイプ」について考えるときに、何に気をつけたらいいのだろうか? いくつかの本を読んでいて「真のレイプ」と「レイプごっこ」を区別しなくてはいけないのだな、は思っている。 たとえば、「レイプ(強姦)願望がある」なんていう言い方をする人がいる。 でも、これは、本当の意味での「レイプ」を望んでいるのではなく、「レイプのような状況」を楽しみたいと言っているに過ぎない。空想の中では、自分の望む時に止められるし、自分が本当に嫌なことをされる心配はない。それは「レイプ」という「意思に反して強制された性(に関する)行為」とは似て非なるものだ。 これに関連してややこしいのが、「性的関係」における「強引さ」と「レイプ」の関係だ。いわゆる「レイプ願望」を腑分けしてみると、そこにあるのは「性的関係」において「自分の意思を尊重しつつ強引に振る舞って欲しい」という欲望だったりするのではないだろうか。リードして欲しい、その気にして欲しいというのもこれに入るのかもしれない。 近年、芸能人が、妙に軽く「自分はM(マゾ)だ」という発言をメディアでする。しかし、よく聞いてみれば「強引にされたい」くらいの意味にしかとれない。 別に、性的関係は男女に限ったことではないし、二人(当事者)が本当に望むなら「SM」でも「レイプごっこ」でも構わないのだろう。リードするのが男性である必要もない。ただ、お互いが(本音を)言葉に出さないと、相手が本当に望んでいることを知るのは難しいだろう。「相手が望んでいると(自分が)思い込んでいるだけ」というすれ違いは、ほんとに容易く起きてしまうから。 (1993年08月に書く/2009年09月に直す) 筑摩書房 文庫 1993 こんな本も 『レイプ・クライシス』 |