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火曜定休でした(岡本太郎記念館



シェイクスピア著 『リチャード二世』

 『リチャード二世』はシェイクスピアの歴史劇の一つで、イングランド王リチャード二世が王座を追われ、いとこが王位につきヘンリー四世となるまでを描いている。

 解説によれば、この戯曲が扱っているのは1398年4月〜1400年3月の出来事。初演が1595年だそうなので、2013年の劇作家が1816〜1818年(江戸時代の文化期末)の出来事を描く勘定になる。

 たとえば、葛飾北斎(1760生1949没)の56歳から58歳。
 たとえば、『南総里見八犬伝』を書いている曲亭馬琴(1767生1848没)。
 たとえば、『解体新書』の杉田玄白(1733生1817没)の死。

 こうしたことを戯曲にする感じだろうか。

   ◇ ◇ ◇

 どんな事件でもそうだが、同じ出来事でも視点が違えば、見える世界が異なる。この作品は、このことを鮮やかに示していると私は思う。

     ◇

 リチャード二世から見えるのはこんな出来事になろうか。

 いとこのヘンリー(後のヘンリー四世)が貴族(モーブレー公)を謀叛を企てたと告発する。モーブレーは否定し、二人は名誉をかけた決闘を望む。決闘の当日、血が流れないようにと、ヘンリーの父親ランカスター公や貴族たちと議論し、二人を国外追放に処す。モーブレーは永久追放。血縁のヘンリーは10年の期限付き。不公平かもしれないが叔父の涙に6年に短縮してやろう。

 アイルランドでの謀叛討伐に自ら軍を率いたいが金がない。宮廷での出費、腹心への恩賞で国庫が乏しいのだ。金がなければ軍隊を編成できず領土を守れないのだから、王領の一部を貸して金を借りよう。なお足りなければ富裕なものから税金を取るしかない。
 と、好都合にも叔父のランカスター公が死の床に。跡継ぎヘンリーは追放の身だから、財産を没収して国難に充てよう。そして「アイルランド征討の兵士たちを美々しく装わせることにしよう」。

 アイルランドで戦っているところに、ヘンリーが舞い戻り、貴族たちが味方になっているとの知らせ。だが、私は王、王には神が付いている。ところが、帰国してみれば、王である自分につく軍勢はない。腹心たちは墓の中。城に籠ってみたものの勝ち目はない。仕方ない、ヘンリーの帰国を許し、正当な要求は受け入れよう……。

 正当な要求は、ランカスターの遺産から王冠へと変わる。自分は、己の罪状を認め、王位を譲り牢へと行くしかない。王妃であった妻は実家へと行く。そして、王の命を受けた者の手によって永遠の眠りに……。

     ◇

ヘンリー四世からは同じ出来事がこう見えるだろうか。

 王に対する謀叛を企てた貴族(モーブレー公)を告発するも、モーブレーは否定する。ならば、名誉をかけた決闘で決着をつけるのみ。決闘当日、試合開始のラッパが鳴った瞬間、王が決闘を止める。あげく国外追放だと。謀叛人モーブレーの永久追放はともかく、自分もでは名誉が守れない。かと思うと、その10年の期限も父親の涙で6年に縮む。王権とはいえ何と得手勝手な……。

 フランスに身を置いているところに父の死去の知らせ。しかも、戦費不足を理由で世襲財産がことごとく王によって没収される。なんという……。

 フランスの貴族の援助で母国イングランドに戻れば、イングランドの貴族たちが集ってくる(王位継承権をもつが故だ)。しかし、叔父であるヨーク公は王への忠誠を求めてくる。ま、互いにわかっているが、正当な要求である「遺産相続」ということにしよう。戦いの結果は目に見えているのだ。まずは、王の周囲にいる奸臣を死刑にせねば……。

 リチャード二世のいる城を包囲し、臣下として正当なものを要求するだけでなく、王家の血を引く者として王位を求める。「あなたの心労の一部は王冠とともに私に譲られるわけです」

 王位につき、リチャードを牢へと送る。王妃であった女はフランスの実家へと戻す。だが「私にはあの生きている恐怖をとりのぞいてくれる友はいないのか?」。

 謎をかけた友の手で恐怖が取り除かれる。だが「おまえに感謝はせぬ」。「毒を必要とするものも毒を愛しはせぬ、私もまたおまえを愛しはせぬ。……。おまえに与えるやさしい言葉、王の恩賞はない。……」

   ◇ ◇ ◇

 リチャード二世は名君とは言えないが、特別に悪逆非道というわけではない。叔父の家の財産の没収も戦費の調達という必要がなければしなかったし、いとこの罪を軽減したのも良かれと思ってのことだろう。二つの間の矛盾のために大きな悪意を伝えてしまうことに無自覚ではあるが。

 ヘンリーも、最初は被害者であるかもしれないが、王位を奪った後は酷いものだ。謎をかけて前王を殺させておいて、手を下した人間を切り捨てるのだから。だが、王として必要だし、仕方がないことなのだろう。リチャードとの違いは、悪に関して自覚的な点だろうか。

 無自覚な悪と自覚的な悪と。どちらの悪も悪は悪。だが、ずいぶんと違う。この作品はそれがよくわかるものだと思う。

(2013年09月)

小田島雄志・訳
白水社


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