ぴゃんの本棚



火曜定休でした(岡本太郎記念館



シェイクスピア著 『ヘンリー四世』

 『ヘンリー四世』は『リチャード二世』につながる時代を描いた二部作である。第一部では、ヘンリー四世が反乱軍との戦いを制するまでが描かれるが、活劇の印象は薄く、クルクルと様子が変わる印象を受ける。第一部は五幕(合計十九場)あるのだが、王ヘンリー四世を中心とする場、皇太子である王子ハルの若き愚行の場、反乱貴族を中心とした場がリレーしていくからだ。

  第一幕第一場 王ヘンリー四世ほか
  第一幕第二場 王子ハル、フォールスタッフほか
  第一幕第三場 王、反乱する貴族ほか/途中で王退場
  第二幕第一場 庶民のみ
  第二幕第二場 王子、フォールスタッフほか
  第二幕第三場 反乱した貴族ほか
  第二幕第四場 王子、フォールスタッフほか
  第三幕第一場 反乱した貴族ほか
  第三幕第二場 王、王子、ほか
  第三幕第三場 王子、フォールスタッフほか
  第四幕第一場 反乱した貴族ほか
  第四幕第二場 王子、フォールスタッフほか
  第四幕第三場 反乱した貴族ほか
  第四幕第四場 大司教と神父(反乱側)
  第五幕第一場 王、王子、フォールスタッフ、反乱した貴族ほか
  第五幕第二場 反乱した貴族ほか
  第五幕第三場 戦闘)反乱した貴族、王子、フォールスタッフほか
  第五幕第四場 戦闘)王、王子、反乱した貴族、フォールスタッフほか
  第五幕第五場 戦闘)王、王子、反乱した貴族

 こう並べてみると、父よりも息子とその取巻きであるフォールスタッフが目立ち、王よりも反乱した貴族が目立つ。これは意図的なもので、反乱側の中心にいる有力貴族の息子と王の息子を対比させる構成にするため、シェイクスピアは事実を変更しているのだそうだ。

     ◇

 第二部も五幕(合計十九場、ほかにプロローグとエピローグ)。戦いを制した王軍に対して、反乱貴族が再度蜂起、それらが制圧され、ヘンリー四世が亡くなり、王子ハルがヘンリー五世となるまでが描かれる。第二部でも、第一部と同様、いや第一部以上に、フォールスタッフが目立つ。だが、ハリーと絡む場面は少なく、だからこそ、この喜劇的存在の魅力が横溢する。

   ◇ ◇ ◇

 実際、この作品を特徴づけるのは、フォールスタッフの際立ったキャラクターだろう。解説によれば、この悪徳と笑いをまとった老騎士は、シェイクスピア作品に登場する人物の中でも一二を争う人気者で、17〜18世紀には座頭(ざがしら)が演じるのが相場だったのだそうだ。
 言葉の調子や間、表情、姿勢や動き。わずかな違いが、観客に笑いを呼ぶか、劇場を冷ややかな空気で満たすかを分ける。喜劇的人物の魅力は、役者の力や演出で大きく変わるものなので、フォールスタッフは役者にとって魅力があるのだろう。そして、素晴らしく演じられた喜劇的人物は観客への最大の贈物かもしれない(この登場人物の"魅力"が引き起こしたトラブルについては解説に譲る)。

     ◇

 もう一つ特徴的なのが王子ハリー(後のヘンリー五世)のキャラクターである。問題児ハリーは、第一部で、フォールスタッフとあれこれと愚行を演じたあげく、改心して戦場へと向かい、反乱軍のリーダーを討ち取り名をあげる。第二部では、悔い改めた放蕩児の苦悩も描かれる。たとえば、王子ハリーが初めて登場する第二幕第二場では、こんなふうだ。

(略)
王  子:あるさ、ま、それを認めると身分柄面目を失うことになる
     かもしれないが。あの薄口のビールをグイッとやりたいな
     ぁ、などと言ったらますます身分卑しいもののように見え
     るか?
ポイズン:まったく、いくら下々のことに通じているといっても、王
     子様ともあろう人があんな卑しい飲み物を覚えていちゃあ、
     サマにならないや。
王  子:おれの喉はどうやら王子にふさわしくできていないらしい、
     ……(略)。
(略)
ポイズン:どうも似合わないなあ、戦場であんな立派なはたらきをし
     たあと、こんなくだらないことをしゃべくるなんて! だ
     いたいいまのあんたのように、おやじさんが病気だってと
     きに、こんなばか話をする王子様ってほかにいるかね?
(略)
王  子:実はな、父上が病気だからといってくよくよふさぎこむの
     はいかんとは思うのだが、おまえを友人として、というの
     はほかにもっとましな相手がいないので、やむをえずおま
     えを友人と見立てて打ち明ければ、おれはやはり悲しいの
     だ、悲しくてたまらないのだ。
ポイズン:そんなことかい? まさか。
王  子:そうか、おまえはこのおれを、おまえやフォールスタッフ
     同様、悔い改めることを知らぬ徹底した極悪人だと思って
     いるのだな。見ているがいい、人間の真価が定まるのは死
     を迎えてからだ。はっきり言っておくが、父上の重態を思
     っておれの心は血の涙を流しているのだぞ。ただおまえの
     ような悪い仲間とつきあっているために、悲しみを表に現
     せないでいるだけだ。
ポイズン:と言うのは?
王  子:かりにおれが涙を見せたら、おまえ、どう思う?
ポイズン:王子の目にも涙とは、ものおーじしない偽善者と思うだろ
     うなあ。
王  子:だれでもみんなそう思うだろう。……(略)。

     ◇

 ところが、放蕩三昧のハル王子は、第一部の第一幕・第二場でこんな独白をする。

 おまえたちのことはわかっている、ただ当分は
 その放らつな気まぐれにつきあってやるだけだ。
 こうしておれは太陽のまねをしようというのだ、
 卑しい黒雲のはびこるにまかせ、一時は人々の目から
 おのれの美しい光をかくしても、ふたたびおのれを
 とりもどそうという気になれば、おのれの息の根を
 とめていたかに見えた醜い黒雲を一気に突き破り、
 本来の姿を現すのだ、待ちこがれていただけに
 人々はいっそう賛嘆の目で仰ぎ見ることになる。
   (中略)
 おれが悪事を働くのは悪事を方便とするためだ、
 人が夢にも思わぬときに一挙に償いをするためだ。

 劇中人物には"改心"でも、観客にとっては"計算された愚行"というわけなのだ。シェイクスピアが何を狙って最初に計算高いところを示したのかはわからない。ハル王子は王となり統治していく身であるから、この計算高さは有能さと同義となる。感動を狙ったのではなく、ハル王子の統治者としての有能さを描こうとしたのかもしれないが、独白のせいで素直に感動というわけにはいかない観客も多いだろう。魅力を感じるか、しらけるか、それも役者次第かもしれない。



(2013年09月)

小田島雄志・訳
白水社


戻る

Copyright(C) 2009 ぴゃん(-o_o-)/額鷹

メールアドレス

このサイトはSitehinaで作成されています。